県職員25年、上木宇宙(うえきそら)です。現在9つ目の職場で働いています。25年も働いていると、いくつもの転機があります。
そのなかでも一番の転機だった「マミートラックから脱出」したときの話。
マミートラックの「トラック」とは、競技場のコース(レーン)のこと。「子供を産んだ女性が走る仕事上のコース」という意味で使われます。マミートラックは子育てしやすいありがたい職場ではありますが、やりがいの持てない仕事であったり、昇進とは無縁になってしまうリスクがあります。
30近くに結婚したものの、仕事のストレスのせいか、なかなか子どもが授かりませんでした。不妊治療のため、休みの取りやすい職場に異動させてもらいました。
マミーになっていませんでしたが、私のマミートラックの始まりです。治療の結果、なんとか「マミー」になれました。上の子どもが11か月、下の子供が2歳2か月と、およそ3年間の育児休業でお休みして、復帰してからも時短勤務でした。
今から思うといいんだか悪いんだか微妙ですが、不妊治療と係長試験を両方チャレンジ。同時に両方とも叶い、上の子どもを産む直前に係長になってしまいました。
上の子どもが保育園の7年間、ひたすらマミートラックを走り続けました。
ふと、気がつくと同期は次々と昇進し、自分も40過ぎになっていました。
「今の仕事って、県庁でやりたかった仕事ではないんだよなあ~。でもやりたい仕事の職場は激務だろうしなあ~。」と鬱々していました。
私の職場には、希望のポストを応募できる「職員応募制度」があります。
下の子どもを妊娠していた時、女性の就業支援に特化した機関がオープンすることになりました。私の入庁理由はまさに「女性」×「働く」でした。「やりたい!」と思いましたが、身重の立場で表明する勇気もなく、泣く泣く諦めました。
マミートラックをひた走ること7年。そのポストに行きたいという気持ちがむくむくとわいてきました。当時のグループリーダーに相談したところ、「やってみたら?」と背中を押してくださいました。
年末に思いと勢いだけで応募。書類審査を通過、年明けに希望先の所属長面接でした。熱意が通じたのか、そのポストをゲットすることができました。
引継ぎの時、そのポストの彼女が転職すると知りました。彼女が転職しなければそのポストの空きはないタイミングでした。
7年間のマミートラック生活のせいか、異動した年は分からないことだらけで失敗ばかり。うっかりチャレンジしてしまったと、浅はかな自分を後悔しました。でも、ひたすら3年間思いっきりやりたいように仕事をしました。異動するときは離れがたく、後ろ髪引かれる思いでしぶしぶ次の方に席を譲りました。このときが本当の意味でマミートラックを脱出した瞬間かもしれません。
希望の部署に異動してから7年。マミートラックと同じ月日が立ちました。よく離婚の痛手は、結婚と同じ年月かかると聞きます。今の私もやっとマミートラックの呪縛から抜けた気がします。